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古事記の秘密③ [考証]

古事記はその発見過程もあり、偽書説が今も後をたたない。

しかも、あの有名な序文をめぐっても、後世の創作であるとの懐疑説もあるくらいだ。因みに、最近は、中学の国語の教科書でも、古今集の仮名序と真名序でなんかが取り上げられている。(マナカナだからといって双子姉妹ではない。)

古今集の仮名序は紀貫之らしいが、古事記の序文は太安万侶(おおの・やすまろ)さんでおじゃる。

この序文は、昔、天武天皇の命令で古い歴史書を稗田阿礼に暗証させておいたものを、今、書き写して歴史書を完成。それを今の天皇である元明女帝に提出いたします・・・という上奏文の形をとっている。

さて、問題な?この序文は、その内容・構成ともに唐の時代に出来た五経正義の中の尚書正義をパクッた形になっている。

実は尚書(書経)とは古事記と同義語なのであった。

さらにその成立過程もそっくりであった。まあ、だからこそ、太安万侶がパクッたんだろうから当然といえば当然。

五経正義の場合は、秦の始皇帝の焚書坑儒により古典が失われたことと、長い時代を経て諸説があふれたことで、公式見解が不明になったことがその理由。

一方、古事記の場合は、多くの豪族がもっている歴史書に矛盾・誤りが多くて困るという理由から天武天皇が統一を命じた。

また、尚書正義においても、暗記の達人たる人物(伏生なる老人)が登場し古典を暗証、それを後になって筆記したということになっているから、古事記の稗田阿礼の場合を全く同じ。

ここまでくると、完全なパクリであり、本当に稗田阿礼(当時28歳だという)が存在したのかどうかどうも疑いたくなってきます。なお、稗田阿礼は性別が不詳なのでもしかしたら女性かもしれない。(昔あった、NHKラジオでは女性・声優の戸田恵子さんでした。)


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古事記の秘密② [考証]

日本書紀にあって古事記にない逸話。つまり古事記にないのに、日本書紀にはある逸話。それは

景行天皇の熊襲(くまそ)征伐記

古事記では、景行天皇(第12代)ではなくせがれのヤマトタケルが父(アボジ)景行天皇の命令で熊襲征伐を行ったことになっている。

特異なのは、日本書紀の天皇親征記事では、往路・復路ともに九州内部の詳細な地名が列挙・記録されている。

これは、古事記のヤマトタケルの熊襲征伐でも、後の時代の仲哀天皇(第13代、ヤマトタケルの息子)・神功皇后(その妻)の熊襲征伐記事においても地名はほとんど出ずにいきなり戦っていること比較すると異様である。つまり、古事記編纂時において細かい地名までは記録に残っていなかったか、もしくは暗証者の稗田阿礼が覚え切れなくて忘れてしまった?・・・ということになるだろうか?

いや、そうではあるまい。日本書紀にこのように細かく地名が描写さえたことは、倭国が滅んだ白村江の戦い以降に倭国を併呑した大和朝廷=日本国が倭国の歴史資料を獲得してパクッたと推理したほうが可能性が高いだろう。

つまり、かつてあった本当の倭国(本拠は筑紫一円)による東~南九州征伐記録を景行天皇に置き換えて追加するという日本書紀の特異の編集パターンであった可能性が高い。手の込んだウソをついたばかりにウソがばれてしまうというパターンですね。

偏差値30の文章の中に突然、偏差値70近い文章が入り込んだら、これは異彩を放つわなぁ~。


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古事記の秘密① [考証]

中学・高校の歴史では、古事記・日本書紀・風土記と一緒くたにして暗記させられてしまうのだが、これは甚だ問題な?教育である。

古事記というのは、そもそもが焚書坑儒させられたものであり、本来はこの世に出る性質のものではなかったのだ・・・ということをちゃんと教えないからである。なんでも、南北朝時代あたりにどこかの寺から見つかった書物だということなのだ。一方、日本書紀はその名前のとおり、新生国・日本(倭国との関係は?)が自ら号した日本という新しい国家の歴史を国内外に向けて記載した正史である。しかも、たくさんのタネ本を基にしており、『一書にいわく・・・』という形で、多くの異説・異伝承も併記されている。

大筋において、古事記と日本書紀は同じなのであるが、かなり違う部分もある。また、扱っている年代にも違いがある。確か、古事記は推古天皇のあたりで終了しているはずだ。また、古事記にないのに日本書紀には載っているという話もある。したがって、日本書紀は古事記の内容では満足せずに、これに加筆・訂正を加えて再構成したものであるというのが一般的な解釈である。

しかし、いったい古事記のどこが大和朝廷にとって不満だったのだろうか?


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ハーメルンの笛吹き [考証]

ハーメルンの笛吹き

『人狼城の恐怖』(二階堂黎人・にかいどうれいと著)のモチーフとなったドイツの伝説・物語。因みに『人狼城の恐怖(全4巻)』は世界最長!の推理小説。

いったい、この伝説の真意はどこにあるのだろうか?また、どのような史実が反映されているのだろうか?

長い間、考えてきたのだが、なかなか結論がでない。今日、たまたま市民病院の貸し出し図書で、子供向けの本を読んだら、私の知っているハーメルンとちょっと話が違っていた。普通は、最後の場面で、盲(めくら)の子と唖(おし)の子が返してよこされる・・・と思うのだが、今日読んだ本では

・笛吹き男を追っていったお父さん・お母さんたちが山のふもとで安心したところで、男はアリババみたいに『開けぇ~ゴマ』とばかりに、トンネルの扉を開けて消えてしまう。

・お母さんたちは、泣いて悲しむが、お父さんたちは黙りこむだけ。お父さんたちが悪者にされているように描かれている。

・脚が悪くて追いつけなかった子供は、あの光のトンネルの中に入れなかったことを後悔する。『きっと、あの光の世界には遊びばがいっぱいあるんだ』と悔しがる。

・盲の子や唖の子が戻ってくるというオチがない。

人狼城では、後のナチスにつながる人体実験に利用されたという筋だが、これはどうも説得力がない。一般的には、少年十字軍とか、口減らしのための人身売買(当時は珍しくない)、ハンガリーなどへの集団植民説があるようだ。

ただ、これらはいずれも大人側からの視点であり悲劇と捕らえているが、子供たちの側からの視点であれば、確かに理想の子供の国を目指したというハッピーエンドとも考えられ得るよなぁ~。

歴史的には、ハーメルンの市役所が公式に記録していることらしく明らかに史実であるようだ。時代的には、モンゴルの侵入があった1284年のことという。事実、ハーメルンの歴史記録はこの事件以前のものはないという。

事件の発端となったネズミの話は、かなり後世の1559年ごろに付け加えられたものらしく、本筋ではなかったようだ。となると、象徴的なのは、派手な服の男がラッパを吹いて行進したということになる。確かに十字軍のような軍事派遣ならば確かに、花々しく行進して出発したであろう。

ただ、130人の子供たちは、男子だけでなく女の子もいたという話だから、軍事説は無理がある。

すると、有力は東欧への集団植民説。過去に学者が検証したところ、当時のハーメルンの苗字が現在のポーランドなどの東方植民地で多数見受けられるという。

教会の影響

この事件はハーメルンの教会のステンドグラスに記載されていたという。そして事件が発生したのは6月26日という聖パウロ・聖ヨハネの記念日だった。これらのことから、どうも首謀者は教会だったような気がする。笛吹き男は植民指導者であり、教会の回し者であったのではないか。

どうやら、現在、最も説得力のあるのは、この集団植民説。子供というのも少年・少女という意味ではなく、我々の同族という象徴的な意味のハーメルンの子らという意味だったかもしれない。当時の政治は男たちだけの意見で決まったであろうから、ハーメルンの男たちが金で子供たちを売ったのもうなづける。だから、物語でも男たちはうなだれて黙りこんだが、泣いたりはしなかった。またパイプの持つ魔力も、象徴的に説明できる。

だが、こういった説でもおもしろくないんだよなぁ~。もっとも、この説にも問題はある。

・移民ならば堂々と歴史書に残せたはずだ

・移民ならば子供だけのはずが無い

尋常な理由ならば、はっきりと書けた筈である。逆にいえば、はっきりと真実を書けなかったほど恐ろしい事件だったか、本当に理由が不明の失踪があったのかということになる。

妖怪人間ベムでは、金曜日の夜になると女たちが化け物になるので、お父さんたちが昼間、子供たちをさらっていたんだよねぇ~。

ある説では、証拠はないが、

・バラバラにされた死体もあった

・木につるされた死体もあった

という。うーん、やはりこうでないと。なんらかの犯罪、事件と関係あったのかもしれない。いずれにしても、障害のある子供たちは除かれたということに対する、納得いく説明がないんだよなぁ~。

 

 

 


雄略天皇の歌は古代朝鮮語(1) [考証]

万葉集の巻頭を飾るのは雄略天皇の歌とされている。例の『カエルピョコピョコ・・・(正確には、籠もよ、美籠もち・・・)』みたいな歌ですね。

雄略天皇は西暦418年生まれで、在位期間は456~479年というのが通説。このあたりは、実際の史実とも年数が合っているようです。(それ以前は干支2運分=120年のズレがあります。)

まずは簡単なプロフィール

一般的には悪徳天皇、大悪天皇ともいわれる。五男である雄略帝が、兄弟たちを殺して帝位についたというエピソードからきています。また罪なき人を多数処刑したとも言われる。また、豪族である葛城一族を粛清したり、葛城山の神様=一言主(ひとことぬし)を追い出して四国へ流してしまったとかの逸話もあります。また三輪山の神様=蛇を引きずり出したともあります。また、とんでもないプレイボーイで、目がつけばすぐに情事におよび、婚約を濫発してはすぐに忘れるという誠に羨ましい男でもあります。有力武将の奥さんに目をつけて、その武将を遠征に出してしまい、その隙に奥さんを手に入れてしまうというどこかできいたことのある話もあるそうです。(聖書のダビデのパクリでしょうか?)もしかして、後の源氏物語のモデルかもしれませんね。

*三輪山とかは大和朝廷以前からあった古い神様の聖地のようです。関西の片は詳しいでしょう。(私のような越後もんにはイメージがわきません。)

一方、その反対に有徳天皇というあだ名もあり、氏姓制度や部民制度を確立、歴史上はじめて日本列島(当然、一部ですが)を『統治』した大王ともいえましょう。

*それ以前の伝説の天皇は、日本列島の一部地域を点と線で結んだ程度の支配を、一時的に行った形跡しかないようです。

なお、有名な倭の五王のうち、最後の倭王・武(在位462~502年、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東太将軍倭王にではないかと思われる人物でもある。武の勢力範囲は静岡の大井川あたりまで及んでいたのではないかと思われます。これは、当然、庵のようなボロ屋にすんでいた大和朝廷の天皇ではなくて、あきらかに九州大宰府に城郭を構えていた大倭国(九州王朝)の天皇のことでしょう。日本書紀はほとんどが大倭国や百済などの歴史を取り込んでいるのですね。

*百済の名前が無いのが、注目ですね。つまり、中国側は百済の支配権だけは認めなかった。

外来の征服王

倭王・武は生涯を百済救援に費やし、高句麗・新羅と敵対しました。その正体は百済の王弟=昆支(コンジ、軍君)だと思われます。

*日本書紀では、日本にいた百済や新羅の王族はほとんど人質!扱いとされているようですが、実際は逆で支配者だったでしょう。事実、昆支は次男を次の百済王(東城王)として帰国させていますし、長男はあの有名な武寧王です。まあ、《人質という方便》で記載したとしても史実を記載してくれた日本書紀の編者には、歴史家としての良心を感じます。

万葉集の巻頭を飾る雄略天皇が倭王・武かどうかはともかく、とにかく雄略帝は日本史の中で画期的な帝王として位置づけれらていたということは間違いありません。では、『籠もよ、美籠もち・・・』の歌はどういいう意味なのか?

一般的な解釈は

プレイボーイの雄略天皇が、ギャルを軟派している歌ということになっています。

姉ちゃん、かわいいね、僕といいことしようよ。名前教えて。家の名も。おいらはこの国の帝王なんだ。[黒ハート]

あまりにふざけていますね!(怒)天皇がノンビリ畑でナンパですか!これが巻頭に掲げられる万葉集っていったい何なのでしょうか?そんなもんだったら、国語の教科書になんて載せる価値なしの三流文学です。教科書検定する文部省は即刻、万葉集を排除すべきです。

そんなことぐらい、平安~江戸時代の学者で気づいた人が一人もいないんでしょうかねぇ~(苦笑)

 

 


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和宮はカゲムシャだった! [考証]

今週の新説は・・・

和宮は偽モノだった! 

ただ、はじめからクワセモノを送るつもりだったのではなくて、旅の途中で山賊かなんかに襲われて死んだため、仕方なくニセモノを立てたという説でした。なんと!今も(本物の宮さんの方の)お墓があります。

当時は、ウワサもたっており、公然の秘密だったとのことです。(狐と狸の行列の風刺絵まで残っていました。)まあ、今で言えば、限りなくクロに近いロス疑惑みたいなもんだったでしょうか。まあ、大事なのは公武合体の建前ですから、本物でなくてもいいとは思いますが・・・

ただ、普通考えるに、朝廷ならば最初から本物を送るなんてことは考えないのと思いますね。ドラマ大祚榮でも、唐の則天武后は突厥に、偽の皇女を送っていますからね。

なお、史実として面白かったのはこちら。

春日の局は本当に怖かった!

夫の浮気相手を・・・

切り殺した!

んですって!普通は仕事人に頼みませんか?鉄人みずから、斬りつけたというからすごい女ですね。相手が婿養子だったとういことで、強気だったようです。

そもそも、将軍家の乳母は今で言う公募(立て札によって募集した)だったといいますが、なんかウソくさいですね。本当に謎の女です。どうして、春日局は表の政治にさえ口を出せるほど偉くなったのか?これも公然の秘密ですが、家光は家康と春日の子供であった。しかし、そもそもどうして、春日が取り立てられることになったのか?

春日=シュンビ=鮮卑族=ハルピン(満州方面の都市、新潟市の姉妹都市です)

彼女の出自に秘密があるのかも?・・・と想像いたします。


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千里を行く名馬 [考証]

今日は、現代競馬では珍しくなってしまった長距離3200mのGⅠ天皇賞が行われました。

正直言って、3000mやそこらの距離が長距離だなんて、あまりにおこがましい言い草なのですが・・・ 。

だって人間でもマラソンでは40キロは平気で走りますからね。もっとも、途中でダウンしちゃう人もたまにはでちゃいますけど。昔のイギリスでは20キロや、それ以上の競馬も行われていたとは思います。もっとも、その場合、馬よりも騎手の方が先にばてちゃうかもしれませんね。まあ、ギャンブルとしての競馬では、何十分もかけるわけにはいかないので、最近はどんどん距離の短縮化が世界の流れのようです。

さて、漢字の世界では一日千里を行く名馬というのがいますね。 いわゆる、西域から来た赤馬と呼ばれる馬は有名で、三国志の呂布・関羽の愛馬として登場します。一般に日本では、一里というと約4kmということになっていますが、それを当てはまると、千里=4000キロですから地球を3分の1周もしてしまいます!

このことわざは、荒唐無稽な誇張表現なのでしょうか?例えば、ウソ800!とか、針1000本!飲~ます、とか・・・。確かに、そういう可能性もあるでしょうが、もう少し現実的な可能性を考えてみたいと思います。馬は現代でいえば、車と同じですから、その宣伝文句がいくらなんでも、リッター1000キロ!とか最高速度500キロ!とかあったら現実的な商品取引は成立しないからです。 

そこでという単位を考えてみましょう。千葉・茨城のあたりにある有名な九十九里浜ですが本当に

4km×約100=400kmもあるのか?そんなはずはないですね。東京から新潟までがそれくらいの距離ですから。調べてみますと、里という単位は、関東と関西では違っていたらしい。江戸時代の関東の里というのは

1里=400m~600m

とあります。もともとは面積の単位だったようで、後にその正方形の一辺の長さに相当する距離の単位に用いられるようになったようです。九十九里浜も源頼朝が槍か何かを立てて、その本数が99本あったことから名前がついたと言われているようです。これも、当時の弓矢が飛ぶ距離が1里(4~500メートル)ぐらいだったのかもしれません。

一方、関西では約4kmで、(坂の加減などによって一定ではないにしても)人がだいたい一時間当たりに歩く距離が違ったものを反映しているようです。たとえば、畳1畳(じょう)が人間の身長、米一石が一人の人間の1年間あたりの消費量のように。

さて、関東風の1里=400mとして千里を計算しますと、千里=400000m=400キロ となりますが、これでもまだ常識的に無理ですね。馬はスピードがある割りには、スタミナに欠けますから。しかも草食動物なので大量の草を食べる必要がある。

では、本場中国の里とはいったい、どんな距離なのか?残念ながら、時代によって距離が違います。しかも、具体的にその距離について説明した文章がないらしく(当時の人には当たり前のことなので、いちいち説明する必要がなかった)、完全には解明できないようです。ただ、古代の周王朝と、秦・漢では距離が違っているそうです。つまり、有名な秦の始皇帝による度量衡の統一の時に、前王朝とは里の単位をガラリと一変させたようです。いわゆる、一里=400m程度というのは、この漢の時代の基準のようで、現在も朝鮮半島では、同じようです。

時代や地域によって、中国での里は一定していない。しかし、日本では誰でもしっている有名な魏志倭人伝には、『帯方郡から邪馬壹国まで1万2千里』としっかり載っています。魏は漢を滅ぼして(形的には禅譲)建国した国です。この12000里を従来の漢里(400m)で計算すると、4800000m=4800キロで邪馬壹国は赤道を越えてしまいます!こんなバカなことを正史に記載するはずはないですね。これはやはり、魏という国は、漢王室とは違う単位を制定してたと考えるのが妥当です。そもそも、朝鮮半島の南東までは七千里とちゃんと記載してあるのですからね。ということは、朝鮮半島の距離を7000で割れば、魏志の里が何メートルなのかカンタンに割り出せます。計算しますと、一里=75~90mです。おそらく75mぐらいだったとういのが事実のようです。

三国志では、同様に有名な赤壁の戦いの記載においても、同様のことが判明しました。なぜなら、長江(揚子江)の川幅は今でも500mぐらいなので、途中で呉の軍隊の船が北岸に近づいたとき、魏軍が矢を放ちます。これが、2~3里だったと書かれていますから、150~200mぐらいで、通常の矢が飛ぶ範囲であることは明らかです。もしも一里が400メートルもあったら、向こう岸にまで届いてしまいますし、そんな長い間飛行する矢は、カンタンに避けられてしまいます。

ということで、千里の名馬とういうのは1日に4000キロも走るペガサス(走るというより空を飛ぶ)ではなくて、1日に80キロ程度 は走れる超スタミナ血統の馬という意味であると考えるのが一番妥当のようです。まあ、サレブレッドには無理ですが・・・。因みにスタミナならば、アラブ馬のほうが優秀です。

なお、昔の周代の里が本当にどの程度の距離だったかは、はっきりとは解明されていません。


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アポロ計画への疑問 [考証]

スパイラルドラゴンさんの記事

人類の月面着陸をウソと断言する記事がアップされています。

科学的な疑義は、なかなか難しいので、私には断言はできませんが、発想を変えて素朴な現象から考えてみますと・・・

人類の一歩というと、あの月面に残した足跡の写真が有名ですが・・・

恐竜の足跡の化石じゃあるまいし、

乾ききった月面の土に、(足跡がのこるくらいの)湿り気があるなんて・・・

おかしい!!

降龍的な発想でいえば、これはどうしてもマスコミ受けする

足跡の写真が欲しかった

・・・からではないのか?

うーん、

この一歩は人類の一歩としては小さいが、

アメリカのウソを暴くには大きすぎる一歩かもしれない。


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キリスト教の学問1 [考証]

おことわり

このシリーズは歴史考証であり、人の信じているものにケチをつけるわけではないので悪しからず。

天地創造やバベルの塔、ソドムもゴモラ(大映の怪獣じゃないぞ)、ノアの箱舟、十戒、など有名な話ばかりの旧約聖書(というより本物の聖書)=ユダヤ教からなぜ、キリスト教が生まれたのか?このたび、話題のダビンチコードのおかげで、キリスト教関連の本を読んで勉強になりました。なるほどと思える話がいろいろあったので、この機会にご紹介します。

いわゆる旧約

アブラハムは嫡男のイサクを神への生贄として火あぶり?にしようとする。(なんとも酷い話。しかも彼にはアラビア人かエジプト人の妻との間に長男?がいたのだが、こちらは追放してしまう。)

そして新約とは神とイエスが結んだ契約。

と、ここまでは誰でも知っている話。だが、この二つの話の間の関連性を考えた人はいるだろうか?

実はこの二つの間には関連性がある。つまり

『どちらも父がおのれの息子を生贄にした』ことなのだ。

ゆえにイエスはただのユダヤ人であってはならない。なんとも奇想天外な発想で、主=神の子というレトリックを作り上げたのである。うーm、気付かなかったなぁ。

旧約聖書を読み込んだユダヤ教の一派(エッセネ派)が作り上げた壮大なドラマ。

キリストの十二使徒はイスラエルの十二部族になぞらえたもの。本来、主に捧げる子羊は火あぶりにして形がなくなるまで燃やすのだそうだが、残念ながら当時のローマの処刑方法は十字架への磔だったというところが誤算。

本来の生贄は決して脚の骨を折ってはならない決まりだったため、イエスの死体を引き取りⅡ着た者が『どうか骨を折らないでほしい』と嘆願したのは有名な話。(磔では完全に死を確認するためナタで脚を断ち切ったという。よって、イエスは最後に日本の獄門のように槍で突かれたという。)

三四郎で有名な『迷える子羊』はなんで、生贄なのか?神様がラムの肉がお気に入りだからなのどうかは『神のみぞ知る』ところだが、当時は金持ちは羊を、貧乏人は鳩を生贄に捧げたそうだ。だが、実はこれも神殿前にいる業者が焼かずに、再利用していたのでイエスは怒って業者の屋台を破壊(テロ活動)して回ったという。この話はあまり有名でないですね。

するとイエスを裏切ったユダとい名前にも疑問がわく。裏切り者はなぜ、ユダではなければらないのか。ユダヤ人では人気のある名前のユダ、ヨシュア、ヨセフ、アブラハムなどは何人にも使用されるので紛らわしい。因みにペテロはあだ名で本名は違う。故にユダも本当の名前がユダだったかどうかは疑問なのだが、とにかく裏切り役はユダという名前でなければならなかったのではないか?と類推する。なぜなら、・・・

(後は次回で。なんか逆説の日本史みたいになってきたなぁ)

 

 

 


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